高橋葉介「夢幻紳士」 冒険活劇編1/幻想編/逢魔編 (bk1)

 80年代初頭に連載されていた「夢幻紳士」をコミック文庫で復刊したのが冒険活劇編、それをもとにガラリと趣向を変えた同じ主人公の連作短編を新しく「ミステリマガジン」に連載しているのが幻想編と逢魔編、という関係のようです。

 「冒険活劇編」はその名の通り、1930年代後半-40年代初頭くらいの日本を舞台に、妙に女装の似合う少年探偵・夢幻魔実也が活躍する冒険活劇で、主人公のほかにもドイッチュラント級戦艦の青写真を英国諜報部に、キング・ジョージ五世級戦艦の青写真をドイツ情報部に、六万トン級戦艦(計画段階の大和級戦艦)の試案図を各国に売り渡したあげく上海で列強の情報部に追い回される父親(世界征服を夢見て各地を放浪する誇大妄想癖の持ち主)や、息子に差し向けられた刺客が下見に来たのをあくまでも探偵事務所のお客様として扱う妙にマイペースな母親といったクセのあるキャラクターたちが出てくるなかなか楽しいドタバタコメディになっています。
#ちなみにこの父親、上海ではフランス情報部からも追われていたようですが何を横流ししていたんでしょうね……。この調子でいくとマジノ線の設計図あたりかもしれませんが。

 一方で「幻想編」と「逢魔編」ではアンニュイな雰囲気を漂わせる高等遊民めいた青年に成長した主人公が夢の世界の住人として恋人の忠実なボディーガードを務めたり、千里眼を持った芸人や肝の据わっていそうな女将のいる場末の料亭で妖怪変化どもをおちょくって一夜を過ごしたり(これも夢の世界での出来事)と、がらりとトーンが変わり幻想小説めいた雰囲気を醸し出しています。版画のような描線と陰影、講談や明治・大正期の小説の語りを思わせる古風でキレのいい台詞回しなど、漫画というよりもむしろ絵巻物や絵物語を連想させる独特の味わいもなかなか魅力的。

 ……という具合にどちらも面白いのですが、読んでいくうちに話そのものもさることながら、背景となる世界のほうに興味が向いてきました。両作品の舞台となっている世界はどうやら戦間期から1940年代初頭にあたる時期。大恐慌もなく、日本が国際的に孤立することもなく、列強諸国が水面下でさや当てを演じてはいるものの、第二次世界大戦のような列強同士の世界規模の総力戦という破局に至ってもいないようです。

 そう、夢幻魔実也の生きている世界は、極論するならばあり得たもう一つの「昭和」の姿であるということもできるでしょう。第一次大戦後、大恐慌以前の日本は深田祐介氏が「美貌なれ昭和」で描いたように「神風」号が世界一周飛行を達成し、世界的なバイオリニストとなりうる人材が出てくるなど、明治以来の独立・富国強兵路線が一応の達成をみるのみならず、技術面・文化面でも日本が世界のトップクラスに躍り出ようとしていた時代でした。もし、あのとき世界規模の大恐慌や総力戦に見舞われて挫折することなく、平和裡に日本が発展することができていたら、そこにはいかなる光景が現れていたのか──。1940年前後の世代とおぼしき軍艦や飛行機、戦車が小道具として出ており、かつ大正モダニズムの香りを感じさせる「夢幻紳士」シリーズを読んでいると、時折そのような思いにとらわれそうになります。

 第二次大戦後の「西側陣営に所属し、国際的な政治的・軍事的問題の解決はアメリカにゆだね、我が国は軽武装・経済重視で進む」という吉田ドクトリンは「敗戦を転機として、太平洋を挟み対峙する日本にとって最大の敵国であった国を最大の味方となし、明治以来の日本の安全保障問題に対して究極的な解を与えた」という評価があります。その上で生産技術に磨きをかけ、高度経済成長を実現した戦後日本は結果として望みうる限り最高の発展水準を達成したと見てよいでしょう。しかし、部分的にしろすでに高度なレベルの達成を遂げつつあった昭和時代にそのまま順調な発展が続いていればそれにこしたことはなかったのではないか──と思ってしまうのもまた自然な発想ではないでしょうか。

 まあ、上記のようにうんたらかんたらと小難しいことを考えなくても、純粋に作者特有の艶のある描線や話の展開、萌え要素を楽しめる良作です(どこがツボにヒットしたのかとかは聞かないように)。

よしながふみ「こどもの体温」「愛すべき娘たち」「フラワー・オブ・ライフ」(bk1)

 よしながふみの(801ではない)連作作品集と学園もの(共学)。
 連作短編集はどちらも家族の話ではあるのですが、前者は「男の子」の視点、後者は「女の子(もしくはかつて『女の子』であった女性たち)」の視点で描かれています。これらの作品に見られるように、一見エキセントリックだけれどもそれぞれに切ない事情を抱えているキャラクターが出てくるシビアな話をドライな絵柄で淡々と描く、というのがよしながふみの作風なのですが、当事者たちにとっては切実な状況なのに第三者視点から見るとついつい笑ってしまうという「笑いどころ」を作るのがうまい作家でもあります。
 そのコメディ作家としての本領を遺憾なく学園ものの舞台で発揮しているのが「フラワー・オブ・ライフ」でしょう。秀逸な同人ヲタライフ描写ともあいまって、読んでいる間笑いが止まりませんでした。

 この人の現実(あるいは人生)に対する認識にはわりと情け容赦のないものがあるのですが、その裏から諧謔と愛情がにじみ出ている点では塩野七生とも共通するものがあるかもしれません。非常に力量のある作家なので、内容的にも入りやすいと思われる(何)上三作は文句なしにお勧め。

ニール・スティーヴンスン「ダイヤモンド・エイジ」(bk1)

 相変わらずのスティーヴンスン流。現時点では著者の持ち味が一番いい形で出ている作品だと思います。ハードカバーでは数年前に出ていたのですが、文庫落ちしたので購入。

 スピード感のある展開の中にこれでもかとばかりに色々と小ネタを盛り込む、一種ペダンティックというか平野耕太のいう「オタクカクテル」にも通じるスタイルはこの著者の持ち味でしょう。スティーヴンスンの本は「スノウ・クラッシュ」「クリプトノミコン」と読んできましたが、話のバランスの良さと独特のスタイルがうまく活かされているという点においてこの「ダイヤモンド・エイジ」が一番完成度が高いかもしれません。もしスティーヴンスンの本を誰かに勧めろ、といわれたら真っ先にこれを挙げたいところです。

 本作に出てくる「ラクティヴ」というメディアの形態や、ナノテクに基づいたアーキテクチャで構築されたインタラクティヴ・ブックの可能性などガジェットも魅力的なのですが、それがストーリーや世界観とうまく結びついている点が好感度が高いです(ガジェットやアイデアだけが突出していないという意味で)。

 印象に残ったセリフとしては、本作の主人公の一人であるネルがムーア巡査(退役軍人。もと准将)と別れるときに交わしたネオ・ヴィクトリア人の倫理や世界観に関するやりとりがあります。

「子供たちがそれを信じるのは」と巡査。「それを信じるように教え込まれたからだ」
「そう。まったく疑いもしない子供たちもいます。そういう子たちは、成長して狭量な大人になるでしょう。何を信じているかは言えても、なぜそれを信じているのかは、伝えられない。社会の偽善に幻滅するようになって、反発する子供たちもいます──エリザベス・フィンクル=マグロウがしたように」
「君はどっちの道に進むつもりなんだい、ネル?」巡査の声は、興味津々といった感じだ。「順応して従うか、反発して背くか?」
「どちらにも進みません。どちらの方向も単純で──矛盾や曖昧さに対処しきれない人たちが進むだけの道です」
(『ダイヤモンド・エイジ』下巻p.183)

 自分を取り囲む世界が持っているあいまいさや多義性を前提として受け入れた上で自分のスタンスを見つめながら進んでいく、という彼女の意思表明ともとれますが、たまたま本作を読んでいる時期に、これと共通するような発言を別方面でも見かけました。

梅田さんが、もともと「ウェブ進化論」を書いて、人々がそれに快哉を叫んだのは、日本のネットに関するジャーナリスティックなジメッとした言説空間に、別の新しい光が差し込んだと感じたからだと思うけど、それで今度は、そっちの方に一気に針が振れるのであれば、同じ間違いだと思う。今回の対談で示した通り、身も蓋もない言い方だけど、ネットの世界にはどっちの現実もあるし、もっと別の見方もあるでしょう。その複数の観点に常に跨っていることはスッキリしないことだけど、それ以外にはないと思う。その「複数性」というのが、ここ数年の僕の創作の根幹だけど、「何がしたいか分からない」という一言で片づけられることも多くて、まぁ、なかなか難しいもんです。だけど、この作家は何時もこういう作品を書いていて、だからこういう人間なんだという、そういう怠惰で、粗雑な人間理解の枠組みに自分を落とし込んで、何が読書の楽しみなんだろうと僕は思う。そこには厳密な意味で他者は存在しなくて、単に自己の鏡像があるだけじゃないのかなと思います。
(江島健太郎さんのblogでの平野啓一郎さんのコメントより)

 ネルの発言はネオ・ヴィクトリア人のコミュニティという「自分の外側にあるひとつの世界」に対してどういうスタンスを取るか、という話ですが、平野さんのコメントは「ネットワークの中の社会に対する、自分の内側の複数の視点(あるいは多義性)」をどう受け止めて表現するかという姿勢の話ともとれます。

 両者に共通しているのは、この世界にある曖昧さや多義性というのはそれ自体が一つの確固たる現実であり、それを否定したり無理矢理単純なモデルやイデオロギーの中に落とし込むのではなく、(自分の性格や認識能力の枠内において)可能な範囲でできるかぎりありのままに受け止めようとする姿勢を示している点です。

 上のようなスタンスを単に口先で掲げるのみならず、生きていく中で実践するのは相当に面倒くさいのですが、「それをやらなければどうにもならない」という認識が両者の発言の背景にあるのではないかと思います。こういう態度には(控えめにいっても)大いに共感が持てます。共感を持っているのはいいがそれをわたし自信が実践できているかというと、それはまた別の問題ではありますが。

西川魯介 「野蛮の園」(2)

 相変わらずアフォなネタ連発で疾走していますが(褒め言葉)、魯介マンガからは「真面目にバカなことをやっている」という印象も受けます。バカであることに対して真面目であるというか。本棚に並んでいる本のタイトルなど、小ネタのばらまき方も丁寧だし……。
 この巻の最後に収録されている「我がまどろみは覚めがちに」は普段のおバカ話とは違っておとぎ話めいていますが(モンスターどもの台詞が韻を踏んでいるのもそれっぽい)、こういうトーンの話、実は結構好きです。売りにくいだろうけど、ファンタジーぽい話とかリリカルな短編とかもどっかで連載やって単行本にならないかなあ。固定ファンしか買わないだろうな絶対、という気もひしひしとしますが。

ウォルター・J・オング 「声の文化と文字の文化」

 IRCの某チャンネルで常々「ふくだマジレス禁止」だの「ボケがつまらん」だの「ふくだオチはー?」だのと言われていることに対する「何でそう言われなあかんねん」という疑問というか鬱屈を解消してくれるかな、と思って手を出したのですが、単にそのへんの事情を解明してくれるにとどまらず、ものすごい衝撃を与えてくれる本でした。どのくらいの衝撃かというと、マクニール先生の「世界史」に匹敵します(るーしん師匠による『世界史』のレビューはこちら)。

 本書やマクニール先生の「世界史」に共通する特徴は、我々があたりまえに生きているこの世界のあり方は決して「あたりまえ」ではなく、過去から連綿と続いてきた歴史的な変化の結果としてこうなっていることにすぎない、ということを骨髄のレベルで実感させるにとどまらず、我々の生きている世界とは異なる世界としての「過去」の世界のありさまを鮮明に思い起こさせてくれる、という一点にあります。常日頃何気なしに歩いている道の敷石をふと思い立ってめくってみれば、そこにはもう一つの宇宙ともいうべき異世界があることを思い知らされるような感覚、といえばSF好きにはわかりやすいかもしれません(本当か)。Fateをプレイしたことのある人になら、世界そのものに対して「投影」や「強化」の魔術を行い、その構造をトレースするような感覚を魔術回路なしで味わえるようなものと表現してもいいでしょう(だからもっとわからんて)。

 自分の抱いていた日常的な世界観が見事にひっくり返り、過去の世界の様相やその過去と現在との繋がりがありありと実感される感覚というものはある種中毒しそうなくらいの衝撃ではありますが、私にとって歴史書で最初にそういう衝撃を与えてくれた本がマクニール先生の「世界史」です(なので、そういったインパクトを自分の中では勝手に『マクニール級の衝撃』などと呼んでいます)。

 本書の第一章と第二章では、言語の最初のあり方はあくまでも声に立脚したものであり、物語や詩、格言の技法や構造は声による語りを前提としていたこと(そして、近年まではそれらの作品に対して『文字の文化』によるバイアスのかかった見方しかされなかった)ことをまず明らかにしています。第三章では文字とは関係なしに、純粋に音声のみで言語を扱う文化、すなわち「声の文化」の特徴について説明し、第四章で文字と「書く」ことが編み出された後に人間の思考と文化がどう変化したか、それは「声の文化」とどのように関連してきたか、ということを述べた後、第五章において印刷の発展が「書く」ことによる思考の変化や「文字の文化」への転換を加速し、近代的な思考法や言語意識を成立させていくありさまを描き、第六章では「声の文化」における物語の構造が「文字の文化」におけるそれへ移り変わっていく様子を見ていき、最後の第七章で「声の文化」と「文字の文化」の比較研究から得られるいくつかの視点について論じています。

 本書は、本来ならば声として発された瞬間に消えていくはずの言葉を視覚的な記号として空間に固定する文字の威力の凄まじさ──かつて「声の文化」が主流であったことを現代人にすっかり忘れさせてしまうほどのもの──を実感させてくれますが、同時に「文字の文化」からは想像もできないような「声の文化」のさまざまな特徴や技法、意識がまだ強固に生き残っていることを実感させてもくれます。たとえば、(少々長くなりますが)冒頭の話がらみで目から鱗が落ちたくだりを引用してみると、

 声の文化においては、ふつう、ものを尋ねることも、人に対する働きかけとして解釈される。つまり、一つの闘技として解釈される。だから、まともに答えられずに、しばしば受け流されることになる。これを例示するような逸話が、アイルランドのコーク県を訪れたある訪問者について語られている。アイルランドはどの地方もまだ声の文化の影響が色濃く残っているところであるが、コーク県はなかでもとりわけ声としてのことばが生きている地方である。──(中略)──神話によると、コーク生まれのすべてのものは、あらゆる質問をつぎのようにあつかうのだという。つまり、つねに質問によって質問に答えるべし。[声としての]ことばのガードをけっして下げてはならぬ、というように。(p.146-147)

 本書の「闘技」という表現は少々オーバーかもしれませんが、IRCで複数人で話をうまく繋げて落としたり、交互にボケとツッコミを連鎖させてクライマックスにもっていく、という即興的な話芸を駆使する(そして、そういう話芸に対して強い自負を持っている)人もいます。私は物心ついたときから意識も生活もすっかり文字に浸かりきって育っているので、内心「なんでそんなアクロバティックな高等技能にこだわるんだようヽ(`д´)ノ」と思ったりもするのですが、そういう技能や意識が「声の文化」に由来するものだと考えると平仄が合うというか、まあそういうものなんだなと納得はできます。同じ技能を自分が身につけることはかなり難しいでしょうが……。というか多分無理ぽ……orz

 というわけでこの文章にもオチはありません。あしからず。

マリオン・ジョンソン 「ボルジア家 悪徳と策謀の一族」

 「ピルグリム・イェーガー」を読んでなんとなくルネサンス期イタリアづいている時期に書店で見かけたので衝動買いした一冊。

 ボルジア家といえば塩野七生さんが「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」チェーザレを、「神の代理人」でその父であるアレッサンドロ六世ロドリーゴ・ボルジアを取り上げていて、塩野ファンにはお馴染みの一族ではあります。本書ではもともとスペインの地方貴族であったボルジア家(スペインでの呼称はボルハ家)一族がなぜアラゴン王の宮廷内、ひいては教会で力をつけローマへ進出するに至ったのか、という経緯を前半で扱い、ロドリーゴ・ボルジア以降の塩野さん作品でお馴染みの時代を後半で扱っています。

 新鮮だったのは前半で、教会大分裂の時代にアラゴン王国やローマの法王庁がどう立ち回ったのかというくだりや、アラゴン王がナポリ固執する様子などはルネサンス期に至る前史として興味深く読めました。後半のイタリアに渡ったボルジア家を描いた部分も、すでに「神の代理人」を読んでいるのである程度馴染みはありましたが、これも面白かったです。「神の代理人」におけるアレッサンドロ六世の描写はサヴォナローラとの対決をメインにしており、教皇本人の内面的な思想や価値観に焦点をあてていましたが、本書では現在のローマ教皇がそうであるような「武器を持たぬ預言者(つまりカトリック教徒の精神的指導者)」ではなく、「政治・宗教・軍事の全てにわたって教皇領を掌握する世俗的君主」たろうとしたロドリーゴ・ボルジアの姿を映しだしています。

 教皇であっても世俗の政治とは無縁でいられない、という事実は考えてみれば当然のことなのですが、必要とあらばためらわずに世俗的君主としてふるまったこの時代の教皇たちのあり方と現在のローマ教皇の姿とを対比させてみると、歴史好きとしてはある妄想を抱かざるをえません。「もしイタリアに教皇君主国が成立し、それがそのまま統一イタリアとして近現代に至るまで存続していたらどうなっていたか」「イスラム圏のように、西欧に宗教的権威と世俗的権威の双方の頂点に立つ同一の君主(すなわちローマ教皇)のもとに統治される大帝国が成立していたら世界はどのようになり、教皇はどのように振る舞ったか」というのがそれですが、前者はともかく後者は可能性が低そうです。ローマ以後なぜ西欧世界に大帝国が成立しなかったのか、という事情についてはマクニール先生が「世界史」で述べていますが、それを考えるとチェーザレロドリーゴの二人が健在だったくらいでイタリアはまだしも、西欧世界全体がまとまるとは思えないんだよなあ。前者にしても、教皇領をまとめられたとしてもその後ヴェネツィアフィレンツェ、ミラノといった諸国を相手にどう立ち回るかという問題はあるし。……結局どっちも妄想か。

 まあ、こういう妄想じみた歴史改変というか時間犯罪については佐藤大輔御大あたりに華麗にやっていただきたいところであります(もしかすると『信長征海伝』あたりで既にやっているのかもしれませんが、そのへんは未読なのでわからず)。