ニール・スティーヴンスン「ダイヤモンド・エイジ」(bk1)

 相変わらずのスティーヴンスン流。現時点では著者の持ち味が一番いい形で出ている作品だと思います。ハードカバーでは数年前に出ていたのですが、文庫落ちしたので購入。

 スピード感のある展開の中にこれでもかとばかりに色々と小ネタを盛り込む、一種ペダンティックというか平野耕太のいう「オタクカクテル」にも通じるスタイルはこの著者の持ち味でしょう。スティーヴンスンの本は「スノウ・クラッシュ」「クリプトノミコン」と読んできましたが、話のバランスの良さと独特のスタイルがうまく活かされているという点においてこの「ダイヤモンド・エイジ」が一番完成度が高いかもしれません。もしスティーヴンスンの本を誰かに勧めろ、といわれたら真っ先にこれを挙げたいところです。

 本作に出てくる「ラクティヴ」というメディアの形態や、ナノテクに基づいたアーキテクチャで構築されたインタラクティヴ・ブックの可能性などガジェットも魅力的なのですが、それがストーリーや世界観とうまく結びついている点が好感度が高いです(ガジェットやアイデアだけが突出していないという意味で)。

 印象に残ったセリフとしては、本作の主人公の一人であるネルがムーア巡査(退役軍人。もと准将)と別れるときに交わしたネオ・ヴィクトリア人の倫理や世界観に関するやりとりがあります。

「子供たちがそれを信じるのは」と巡査。「それを信じるように教え込まれたからだ」
「そう。まったく疑いもしない子供たちもいます。そういう子たちは、成長して狭量な大人になるでしょう。何を信じているかは言えても、なぜそれを信じているのかは、伝えられない。社会の偽善に幻滅するようになって、反発する子供たちもいます──エリザベス・フィンクル=マグロウがしたように」
「君はどっちの道に進むつもりなんだい、ネル?」巡査の声は、興味津々といった感じだ。「順応して従うか、反発して背くか?」
「どちらにも進みません。どちらの方向も単純で──矛盾や曖昧さに対処しきれない人たちが進むだけの道です」
(『ダイヤモンド・エイジ』下巻p.183)

 自分を取り囲む世界が持っているあいまいさや多義性を前提として受け入れた上で自分のスタンスを見つめながら進んでいく、という彼女の意思表明ともとれますが、たまたま本作を読んでいる時期に、これと共通するような発言を別方面でも見かけました。

梅田さんが、もともと「ウェブ進化論」を書いて、人々がそれに快哉を叫んだのは、日本のネットに関するジャーナリスティックなジメッとした言説空間に、別の新しい光が差し込んだと感じたからだと思うけど、それで今度は、そっちの方に一気に針が振れるのであれば、同じ間違いだと思う。今回の対談で示した通り、身も蓋もない言い方だけど、ネットの世界にはどっちの現実もあるし、もっと別の見方もあるでしょう。その複数の観点に常に跨っていることはスッキリしないことだけど、それ以外にはないと思う。その「複数性」というのが、ここ数年の僕の創作の根幹だけど、「何がしたいか分からない」という一言で片づけられることも多くて、まぁ、なかなか難しいもんです。だけど、この作家は何時もこういう作品を書いていて、だからこういう人間なんだという、そういう怠惰で、粗雑な人間理解の枠組みに自分を落とし込んで、何が読書の楽しみなんだろうと僕は思う。そこには厳密な意味で他者は存在しなくて、単に自己の鏡像があるだけじゃないのかなと思います。
(江島健太郎さんのblogでの平野啓一郎さんのコメントより)

 ネルの発言はネオ・ヴィクトリア人のコミュニティという「自分の外側にあるひとつの世界」に対してどういうスタンスを取るか、という話ですが、平野さんのコメントは「ネットワークの中の社会に対する、自分の内側の複数の視点(あるいは多義性)」をどう受け止めて表現するかという姿勢の話ともとれます。

 両者に共通しているのは、この世界にある曖昧さや多義性というのはそれ自体が一つの確固たる現実であり、それを否定したり無理矢理単純なモデルやイデオロギーの中に落とし込むのではなく、(自分の性格や認識能力の枠内において)可能な範囲でできるかぎりありのままに受け止めようとする姿勢を示している点です。

 上のようなスタンスを単に口先で掲げるのみならず、生きていく中で実践するのは相当に面倒くさいのですが、「それをやらなければどうにもならない」という認識が両者の発言の背景にあるのではないかと思います。こういう態度には(控えめにいっても)大いに共感が持てます。共感を持っているのはいいがそれをわたし自信が実践できているかというと、それはまた別の問題ではありますが。