ウォルター・J・オング 「声の文化と文字の文化」

 IRCの某チャンネルで常々「ふくだマジレス禁止」だの「ボケがつまらん」だの「ふくだオチはー?」だのと言われていることに対する「何でそう言われなあかんねん」という疑問というか鬱屈を解消してくれるかな、と思って手を出したのですが、単にそのへんの事情を解明してくれるにとどまらず、ものすごい衝撃を与えてくれる本でした。どのくらいの衝撃かというと、マクニール先生の「世界史」に匹敵します(るーしん師匠による『世界史』のレビューはこちら)。

 本書やマクニール先生の「世界史」に共通する特徴は、我々があたりまえに生きているこの世界のあり方は決して「あたりまえ」ではなく、過去から連綿と続いてきた歴史的な変化の結果としてこうなっていることにすぎない、ということを骨髄のレベルで実感させるにとどまらず、我々の生きている世界とは異なる世界としての「過去」の世界のありさまを鮮明に思い起こさせてくれる、という一点にあります。常日頃何気なしに歩いている道の敷石をふと思い立ってめくってみれば、そこにはもう一つの宇宙ともいうべき異世界があることを思い知らされるような感覚、といえばSF好きにはわかりやすいかもしれません(本当か)。Fateをプレイしたことのある人になら、世界そのものに対して「投影」や「強化」の魔術を行い、その構造をトレースするような感覚を魔術回路なしで味わえるようなものと表現してもいいでしょう(だからもっとわからんて)。

 自分の抱いていた日常的な世界観が見事にひっくり返り、過去の世界の様相やその過去と現在との繋がりがありありと実感される感覚というものはある種中毒しそうなくらいの衝撃ではありますが、私にとって歴史書で最初にそういう衝撃を与えてくれた本がマクニール先生の「世界史」です(なので、そういったインパクトを自分の中では勝手に『マクニール級の衝撃』などと呼んでいます)。

 本書の第一章と第二章では、言語の最初のあり方はあくまでも声に立脚したものであり、物語や詩、格言の技法や構造は声による語りを前提としていたこと(そして、近年まではそれらの作品に対して『文字の文化』によるバイアスのかかった見方しかされなかった)ことをまず明らかにしています。第三章では文字とは関係なしに、純粋に音声のみで言語を扱う文化、すなわち「声の文化」の特徴について説明し、第四章で文字と「書く」ことが編み出された後に人間の思考と文化がどう変化したか、それは「声の文化」とどのように関連してきたか、ということを述べた後、第五章において印刷の発展が「書く」ことによる思考の変化や「文字の文化」への転換を加速し、近代的な思考法や言語意識を成立させていくありさまを描き、第六章では「声の文化」における物語の構造が「文字の文化」におけるそれへ移り変わっていく様子を見ていき、最後の第七章で「声の文化」と「文字の文化」の比較研究から得られるいくつかの視点について論じています。

 本書は、本来ならば声として発された瞬間に消えていくはずの言葉を視覚的な記号として空間に固定する文字の威力の凄まじさ──かつて「声の文化」が主流であったことを現代人にすっかり忘れさせてしまうほどのもの──を実感させてくれますが、同時に「文字の文化」からは想像もできないような「声の文化」のさまざまな特徴や技法、意識がまだ強固に生き残っていることを実感させてもくれます。たとえば、(少々長くなりますが)冒頭の話がらみで目から鱗が落ちたくだりを引用してみると、

 声の文化においては、ふつう、ものを尋ねることも、人に対する働きかけとして解釈される。つまり、一つの闘技として解釈される。だから、まともに答えられずに、しばしば受け流されることになる。これを例示するような逸話が、アイルランドのコーク県を訪れたある訪問者について語られている。アイルランドはどの地方もまだ声の文化の影響が色濃く残っているところであるが、コーク県はなかでもとりわけ声としてのことばが生きている地方である。──(中略)──神話によると、コーク生まれのすべてのものは、あらゆる質問をつぎのようにあつかうのだという。つまり、つねに質問によって質問に答えるべし。[声としての]ことばのガードをけっして下げてはならぬ、というように。(p.146-147)

 本書の「闘技」という表現は少々オーバーかもしれませんが、IRCで複数人で話をうまく繋げて落としたり、交互にボケとツッコミを連鎖させてクライマックスにもっていく、という即興的な話芸を駆使する(そして、そういう話芸に対して強い自負を持っている)人もいます。私は物心ついたときから意識も生活もすっかり文字に浸かりきって育っているので、内心「なんでそんなアクロバティックな高等技能にこだわるんだようヽ(`д´)ノ」と思ったりもするのですが、そういう技能や意識が「声の文化」に由来するものだと考えると平仄が合うというか、まあそういうものなんだなと納得はできます。同じ技能を自分が身につけることはかなり難しいでしょうが……。というか多分無理ぽ……orz

 というわけでこの文章にもオチはありません。あしからず。