マリオン・ジョンソン 「ボルジア家 悪徳と策謀の一族」

 「ピルグリム・イェーガー」を読んでなんとなくルネサンス期イタリアづいている時期に書店で見かけたので衝動買いした一冊。

 ボルジア家といえば塩野七生さんが「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」チェーザレを、「神の代理人」でその父であるアレッサンドロ六世ロドリーゴ・ボルジアを取り上げていて、塩野ファンにはお馴染みの一族ではあります。本書ではもともとスペインの地方貴族であったボルジア家(スペインでの呼称はボルハ家)一族がなぜアラゴン王の宮廷内、ひいては教会で力をつけローマへ進出するに至ったのか、という経緯を前半で扱い、ロドリーゴ・ボルジア以降の塩野さん作品でお馴染みの時代を後半で扱っています。

 新鮮だったのは前半で、教会大分裂の時代にアラゴン王国やローマの法王庁がどう立ち回ったのかというくだりや、アラゴン王がナポリ固執する様子などはルネサンス期に至る前史として興味深く読めました。後半のイタリアに渡ったボルジア家を描いた部分も、すでに「神の代理人」を読んでいるのである程度馴染みはありましたが、これも面白かったです。「神の代理人」におけるアレッサンドロ六世の描写はサヴォナローラとの対決をメインにしており、教皇本人の内面的な思想や価値観に焦点をあてていましたが、本書では現在のローマ教皇がそうであるような「武器を持たぬ預言者(つまりカトリック教徒の精神的指導者)」ではなく、「政治・宗教・軍事の全てにわたって教皇領を掌握する世俗的君主」たろうとしたロドリーゴ・ボルジアの姿を映しだしています。

 教皇であっても世俗の政治とは無縁でいられない、という事実は考えてみれば当然のことなのですが、必要とあらばためらわずに世俗的君主としてふるまったこの時代の教皇たちのあり方と現在のローマ教皇の姿とを対比させてみると、歴史好きとしてはある妄想を抱かざるをえません。「もしイタリアに教皇君主国が成立し、それがそのまま統一イタリアとして近現代に至るまで存続していたらどうなっていたか」「イスラム圏のように、西欧に宗教的権威と世俗的権威の双方の頂点に立つ同一の君主(すなわちローマ教皇)のもとに統治される大帝国が成立していたら世界はどのようになり、教皇はどのように振る舞ったか」というのがそれですが、前者はともかく後者は可能性が低そうです。ローマ以後なぜ西欧世界に大帝国が成立しなかったのか、という事情についてはマクニール先生が「世界史」で述べていますが、それを考えるとチェーザレロドリーゴの二人が健在だったくらいでイタリアはまだしも、西欧世界全体がまとまるとは思えないんだよなあ。前者にしても、教皇領をまとめられたとしてもその後ヴェネツィアフィレンツェ、ミラノといった諸国を相手にどう立ち回るかという問題はあるし。……結局どっちも妄想か。

 まあ、こういう妄想じみた歴史改変というか時間犯罪については佐藤大輔御大あたりに華麗にやっていただきたいところであります(もしかすると『信長征海伝』あたりで既にやっているのかもしれませんが、そのへんは未読なのでわからず)。