安部重夫 「イラク建国 『不可能な国家』の原点」

 第一次大戦後のイラク建国の青写真を描いた英国の才女、ガートルード・ベル(1868〜1926)の生きた時代を描き、メソポタミアの砂漠に安定した国家を建国することがどれほどの難事業であるかを明らかにしてくれる本です。大英帝国の植民地統治のあり方や、現今のイラク情勢に興味のある人は読むべきでしょう。

 ベルの生きた時代は、中東や中央アジアといったユーラシアの心臓部で英仏独露が「グレート・ゲーム」と呼ばれる覇権争いを繰り広げた時代です。本書では3B鉄道の敷設や、中東における反英蜂起を促そうというドイツの工作をめぐる英独双方の攻防など、「グレート・ゲーム」の実態をまざまざと描いています。白状すると、この本を読むまで「なぜ列強諸国があのような僻遠の地にかくも強く執着していたのか」という疑問を抱いていたのですが、「英国にとってのインドは日本にとっての朝鮮もしくは満州のようなものであった」という説明を読んで激しく納得がいきました。イラクの砂漠やアフガンの山岳地帯は英国にとってはインドを守るための緩衝地帯であり、その他の列強諸国にとってはあるいは自国の権益を拡大し、あるいは英国の柔らかい腹を食い破るために突破せねばならない侵攻ルートであったわけです。石油利権を抜きにしても、こうした地政学的バックグラウンドがあってこその覇権争いであった、ということが実感できました。

 その一方で、メソポタミアの砂漠地帯に安定した統治体制をうち立てることがなぜ困難であるのか、という事情も本書で述べられています。

  • クルド人スンニ派シーア派の三大勢力の並立。
  • ムスリムからの莫大な寄進が注ぎ込まれ、その富が権力や策謀の種となるナジャフ・カルバラといった特殊な聖廟都市の存在。
  • 一神教とはいえローマ・カトリック教会のような統一的教会組織の存在しないイスラム社会では、さまざまな宗派の指導者を軸に内訌や反乱、蜂起が頻繁に繰り返される。
  • 部族社会であり、部族の上位に位置する統治システムがないため部族内、部族間でもめ事が起こりやすく、しかもそれがすぐに拡大し、連鎖する。

 いずれも人々が共通の価値や歴史意識をもとに結束する「想像の共同体」たる近代国家の形成を阻害する大きな要因ですが、こういった人々が砂のようにばらけやすい社会のあり方は日本人にとっては異質としかいいようのないものでしょう。多神教的な神仏習合を伝統とし、信長の時代以降は政教分離が確立し、江戸から現代にいたるまで自民族による安定した統治システムが存在することに慣れきっている我々日本人の目からすれば、こうしたイラクの状況にはある種想像を絶するものがあります。

 このような性質をもつイラクの土地に近代国家をうち立てることは脆弱な砂漠に空中庭園を建てることに等しいと本書は述べていますが、まさにその通りだと納得させられました。外交と統治の術に長け、現知事情に通暁した老練な英国人でさえそれに失敗し、フセインバース党が台頭した歴史をどう考えるべきなのか、仮にその失敗から何かを学びえたとしても、新たなイラクの国家もまた短命に終わるのではないか、という懸念が読み終えた後にずっしりと心の中に残ってきます。

 最後に、この本は内容も面白いのですが、漢文の香りがし、生臭い現世の出来事を描いているにもかかわらずときには叙情的、ときには文学的な雰囲気を漂わせる筆者独特の文体もかなり味があります。今後もこうした現在につながる歴史を描いた本を書いてくれないかなぁ。出たら必ず読むんですが。