かつて在りしものの面影:古き良き「昭和」の残照

 昨年4月に社会塵にジョブチェンジして以来、一年半ほど慣れない新天地での研修やら仕事やらでずっと働きづめだったので、現在配属されているプロジェクトが一段落したこともあり、まとめて休暇取得。早めの夏休みと相成りました。

 ……さて、この時間をどう過ごすべきか。家でだらだらしていても気分転換にはならないし、かといって旅行などしようにも普段から面倒くさがりの出不精の身、旅のノウハウや観光地知識なんぞの持ち合わせもありません。よしんばあったとしても旅支度の時間もなし、純粋に力を抜いて一人っきりでぼへらーっとする時間が欲しいなあ、ということで本を買い込んでホテルに籠もることに決定。

 宿は如星師匠のお薦めで山の上ホテルに。最近はWeb予約などという便利なものもあるので、Web経由で速攻予約を入れ、職場のボスや関係者には「実家に帰らせていただきます」メールを出しつつ仕事を整理。その傍ら、滞在前からネットワーク接続や電源利用などいくつかの事柄について問い合わせのメールを出したのですが、全ての要望についてフロントからいちいち丁寧で的確なレスポンスが返ってきて、いやが上にも期待が高まります。そう、まさにワクテカAAを貼りたくなるくらいです。貼りませんが。

 肝心のホテル自体は都心のど真ん中のさらに明治大学キャンパスエリア内という立地なのに(むしろ大学キャンパスに囲まれているからでしょうか)、緑が多く落ち着いた雰囲気の丘の上に小さい建物が二軒という作りになっています。神保町の書店街まで徒歩で坂を下ってわずか3-4分というのも人によってはたまらない立地といえるでしょう。建てられたのは昭和十二年というひときわクラシカルな本館に腰を落ち着け、まずは真っ先に電源とEthernetケーブルの設営。後はひたすらぼけーっと本を読んで過ごし、館内のレストラン群やルームサービスで飲食欲も満たそうという寸法です。

 建物は戦前に作られたアールデコ調の建築ということもあり、照明や壁の細工などインテリアの随所に懐かしさとモダンさの入り交じった雰囲気があります。たしかに古いといえば古いのですが、メンテナンスが行き届いているせいか(そしてスタッフや客に愛されているのか)、塗装のひび割れや内装の傷、壁の汚れといったどうしても避けられない古さが「欠点」ではなく、むしろ骨董のように愛すべき「味」として感じられます。「古色蒼然」という表現はややオーバーかつネガティブな気もしますが、この建物に関しては褒め言葉ととるべきでしょう。むろん、個室の水回りや空調などの設備はきちんと比較的新しいものを入れていて、まったく問題なしに使えます。

 スタッフはフロントからドアボーイに至るまで出しゃばらず、しかし要望のある時やヘルプが必要なときには常にこちらが惚れ惚れするほどの的確な対応をしてくれる上、コーヒーパーラーやレストランはいずれもこぢんまりとしていながらも料理の質やサービングのレベルは粒揃いの店ばかり。うむなるほど、こりゃ文士の缶詰ホテルとして定評があるわけだわ……と深く納得しつつ、ホテルに籠もりきりの数日間を過ごしました。

 むしろそういう環境で「ARIA」の9巻を読んで藍華ちゃんの可愛さに悶絶したり、「夢幻紳士(冒険活劇編)」の3巻で昭和ロマンに浸りつつも1-2巻に比べますますヒートアップしているおバカさと萌え要素てんこ盛りの展開に大笑いしたり、IRCで友人から進められた澁澤龍彦のエッセイ集をこっそりと読んでいたり、MacFace For Winのハルヒ版を導入して喜んでいる宿泊客の方がダメであるともいえます。まあ、ダメ人間ライフを送るのが目的だったので当の本人としては何の問題も感じてはいないのですが。

 総じて非常に魅力的なホテルだったのですが、山の上ホテルの魅力の源泉は以下の三点に集約できるのではないでしょうか。

 一つは建物自体の醸し出す空間の魅力。1937年、第二次大戦が本格的に始まる直前に建てられた建物は、戦前の昭和日本にあったモダンな雰囲気の一端を感じさせてくれます。ホテルの中でじっと佇んでいると、何とはなしに遠い昔の今とは異なる豊かさのあった時代──あるいはその「豊かさ」も幻影なのかもしれませんが──の残照を浴びているような気がしてきます。その一方で、スタッフがWebや電子メール経由で対応してくれたり、全ての部屋でIP Connectivityが提供されていたりと、今の時代ならではの利便性もさりげない形で提供してくれます。

 そしてもう一つはスタッフの質の高さ。ホテルのフロントからドアボーイ、飲食店のウェイターやウェイトレスといった全てのスタッフが何をするにも的確にきびきびと動いてくれる情景は、接していて非常に気持ちのよいものがあります。そういうサービスの良さや、人であれ、機械であれ、システムであれ「動くべきものが的確にきちんと動いてくれている状態」に価値を見いだす人にとっては非常に楽しく過ごせる環境でしょう。

 最後に、飲食店のレベルが粒揃いであること。美味しいものを食べて機嫌の悪くなる人はいないでしょうし、ずっとホテルの中で過ごしていても様々な店の雰囲気やレパートリーの広い料理を楽しめるので、「ホテルの中で全てが完結している」状態を実現しているといえます。ホテル泊まりにもいろいろと目的はあるでしょうが、「ある程度の期間をとってのんびりと過ごしたい」場合、この点はかなり評価の高いポイントになります。

 ともあれ、ホテルという場所の魅力をまざまざと認識させられた数日間でした。……いかん、クセになってしまいそうだ。どうしよう。