スティーヴン・ジェイ・グールドとオリヴァー・サックス

 SF好きがよく用いる表現の一つに「センス・オブ・ワンダー」という言葉がある*1。日本語で表すならば、「全く想像もしなかった未知のものごとや概念に直面したときの衝撃と興奮」というあたりだろうか。如星師匠の言を借りるならば「脳味噌の今まで使っていなかった部分をズビシズビシと制圧されていく愉悦」といってもよい。

 ポピュラー・サイエンスの分野でそのような感覚を味わわせてくれる書き手としては、故スティーヴン・ジェイ・グールドオリヴァー・サックスがいる。両人とも第一線の研究者であり、同時に一級の文筆家といってよい。グールドは進化生物学の第一人者であり、科学史家でもある。彼の文章は、我々がいまこうして生きている生物界の複雑さと多様性、そしてそれがいかにして形成されてきたかを明らかにしてくれる。また、西欧社会における科学というものがどのような社会的状況のなかで発展し、また社会におけるものごとの認識に影響を与え、あるいは影響されてきたかという経緯を垣間見せてくれるものでもある。一方、オリヴァー・サックスは脳神経科医として数多くの神経症や障害の臨床例に立ち会っており、人間のさまざまな神経生理のあり方と、そうした視点から見えてくる世界がいかに奇妙なものであるかをまざまざと描写している。

 どちらの著作も「センス・オブ・ワンダー」に満ちていて掛け値なしに面白いのだが、私が好きなのはグールドのほうだ。彼のエッセイを読むと、グールドの本質は歴史家なのではないか、と思わされる。生命進化の歴史と格闘し、自説を開陳する際の彼のアイデアと筆致は素晴らしいが、それ以上に見落としてはならないのが、彼の語る科学史の断章の数々だろう。

 長年にわたって蜂の生態と行動を分析するなかで構築した分類手法を米国人の性生活の研究に適用したとたん「道徳的ではない」というヒステリックな非難を浴びた昆虫学者、1920年代にウッズホール海洋生物学研究所で業績を上げながら、黒人であるためアメリカ本国では研究者としての力量を評価されず失望し、あくまでも研究に対する評価を求めてヨーロッパに渡りムッソリーニの元に身を寄せた発生学者、放射性物質の崩壊による熱の発生という概念が発見されていなかった時代に地球の年齢を求める論争に参加し「敗北」したケルヴィン卿、卵の中での個体発生における前成説論者と後成説論者たちの議論、プレート・テクトニクス理論以前に大西洋の両側にみられる化石分布を説明するために地質学者たちが頭を絞ってひねりだした大陸間地峡理論……。

 科学とは「冷厳な事実や観察・実験に照らせばおのずから明々白々な真理を導き出せるもの」ではなく、あれやこれやの試行錯誤の末に検証された仮説を積み重ねる営みであることや、科学は決して「公正で客観的」なものではなく、その時々の時代状況における社会的・政治的・心理的な偏見や願望に影響されたり、逆にそうした偏見や願望を補強したりするものなのだということをこうしたエピソードは明らかにしてくれる(彼のエッセイには優生学や人種論に関するものもある)。

 グールドが安易にものごとを単純化したり、後知恵で善悪や賢愚に関する価値判断を持ち込まないのは、人間によるこうした価値判断の根拠がいかに脆弱で危ういものであるかを知っているからだろう。そこには人間の本質やその営みに対し、それが複雑なものだと認めた上で、よい面も悪い面も(『今』や『自分』の視点からの価値判断を持ち込まず)ありのままに捉えようとする歴史家の視線が感じられる。従って、彼は生命の歴史と、人間の営為としての科学の歴史を扱うという二重の意味において歴史家なのだと私は思っている。

 こうした歴史家としての視点は、サックスにはない。むろん、彼は良心的な観察者であり、文章の中で個々の症例(つまり患者の見る世界や、彼らの送る人生)に対する価値判断を持ち込むことは極力避けている。が、しかしそれでも彼は「自分たちのいるこの健常者の世界が最もよい世界」だと内心では思っているのではないかと思わせる記述が時折みられる。避けようとしても無意識のうちにそうした判断が頭をもたげており、そしてそれが文章に反映されている様子は、結局は暗黙のうちに自分とは異質な他者の人生に対してその価値を云々し、価値判断を下しているように見える。

 これは私の邪推、あるいは深読みかもしれない。だが、そのように感じられる部分にさしかかると心の中でいわく言いがたい感情が湧き起こってくるのは確かだ。その感情が生々しいだけに、あまり気持ちのよい読書とは言いがたい。そういうわけで、私が読んだサックスの著作はいまだに「火星の人類学者」一冊のみである。彼の他の著作に興味がないわけではないが、当面は読む気にはなれない。下手をすると内心で憤死しかねないからだ。

 長々しい文章を書いてしまったが、私が言いたいのは、この両者のうちで自分が好きなのはグールドの方だ、というただ一言につきる。グレッグ・ベアは「凍月」によせた序文で「あやまつは人の常というが、裁くもまた人の常なのだから!」と書いているが、グールドのエッセイ──特に科学史に関するもの──ほど、そうした人間のありさまをよく示しているものは他にない。「裁く」ということはなんらかの価値判断を下すことだし、そういう行為には何かしら自分の優越性を確かめるという快感が伴うものだ。しかし、それが正しいという明白な(あるいは確固たる)保証は、実はどこにもないのかもしれない。グールドのエッセイには、センス・オブ・ワンダーとともにそういう戒めが込められているのではないかと思いつつ、グールド分を補充したくなってきている今日このごろである。

 オチはありません。

*1:ちなみに有名なSF業界用語としては、「SFの9割はカスである。しかし、あらゆるものの9割はカスである」という「スタージョンの法則」というものもある:)